毘沙門堂内陣
達谷窟毘沙門堂 綠起
およそ千二百年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を
拐う等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。
そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。
対する惡路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するとの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。
延曆廿年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。
翌延曆廿一年(八〇二年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。
降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願のため寺領を寄進。
奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。
文治五年(一一八九年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。
中世には七郡の大守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(一四九〇年)の大火で焼失するが、直ちに再建された。
戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火により、岩に護られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門ことごとく焼失した。
慶長廿年(一六一五年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されてきた。
昭和廿一年隣家から出火。
御本尊以下二十数体を救い出したが毘沙門堂は全焼した。
昭和丗六年に再建された現堂は創建以来五代目となる。
内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覺大師作と伝える御本尊毘沙門天・吉祥天・善𧸐師童子を秘佛として納める。
次の御開張は令和廿四年となる。
毎月三日の月例祭・春秋の大祭を始め多くあるが、特に修正会は正月元旦から八日迄行われ、慈覺大師から二世別當恵海大和尚が伝え、千余年も続く神事である。
岩面大佛
窟毘沙門堂西方の大磨崖佛は約そ十丈(約三十三m)にも及ぶ大岩壁に刻まれている。
前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓張を以って彫り付けたと伝えられている。
この大佛は高さ五十五尺(約十六・五m)、顔の長さ十二尺(約三・六m)肩幅三十三尺(約九・九m)、日本全國で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。
元祿九年(一六九六年)の錄には「大日之體(岩大日)」、その後「岩大佛」とされ、現在は「岩面大佛」と呼ばれている。
名は岩大日の錄から大日如來とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝說からも阿彌陀如來とするのが正しいと思われる。
その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(一三一七年)には阿彌陀の種子である「キリク」が刻まれている。
明治廿九年に胸から下が地震により崩落し、現在も磨滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。
蝦蟆ヶ池辯天堂
昔、満面の水を湛えていた達谷川や北上川を美しい浮嶋が行き来するのを、奧刕巡錫の慈覺大師は、五色の蝦蟆の姿で、貧乏を齎す貪欲神が化けていると見破った。
大師は嶋を捕えて窟毘沙門堂の前まで引きい、再び逃げ出さぬように一間四面の堂宇を建立し、蝦蟆を降伏する白虵、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられる。
昭和六十年の調査で蝦蟆ヶ池旧護岸から平安末期の土器が大量に発掘されている。
現堂は、昭和廿一年の大火で焼失し、昭和四十六年再建の堂が狭小で、神事の執行に甚だ不便であったため、平成廿五年癸巳の歳に、元祿再建時の舊規に倣い、脇侍の十五童子の内の九躰と共に、御修覆となったものである。
辯天樣は巳年守本尊である。
昔から「藥師、辯天には錢上げて拜め」といわれ金運商売の神で商家の信仰が厚い。
また、智慧の神、技芸の神として民衆からの信仰が厚い。
「生けるが如し」と賞される美しい御姿は美人の譬とされたが、流石に祟を恐れて誰も御貌を覗き見る事はいなかったという。
悋氣な天女の故、仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。
蝦蟆ヶ池は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から辯天樣の御使であり、特にも虵はその最も尊いものとされている。
姫待不動堂
惡路王等は京から拐って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。
逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「髢石」と呼んだ。
姫待不動は智證大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。
しかし年月を經て堂宇の腐朽が著しい為、寛政元年(一七八九年)當地に移された。
桂材の一木彫で、全國でも希なる大師様不動の大像である。
制作年代は平安後期で、岩手有形文化財に指定されている。
金堂
古くは講堂とも呼ばれ、延曆廿一年(八〇二年)に達谷川対岸の谷地田に建てられたが延徳二年(一四九〇年)の大火で燒失した。
江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廢佛毀釋で破棄された。
昭和六十二年に再建に着手し、平成八年に完成した。
桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られた。
本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺(約一二〇㎝)の藥師如來である。